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「今月の一言」のバックナンバー
●礼讃文● 生きがいの「かい」という言葉を辞書で引くと、「その行為に値するだけのしるし。また、それだけの値打ちや効果」 つまり生きがいとは、生きているに値するだけのしるし。であり、生きている値打ちや効果。ということでしょうか。 それでは「あなたの生きがいは何ですか」と問われたとき、皆さんはなんと答えられるでしょうか。 確かに仕事に生きがいを見いだした方もおられることでしょう。また、子供が生きがいと考えていた時期もあった では、仏教では生きがいをどう考えているのでしょうか。 仏教各宗派に共通する「礼讃文」の前文です。 現代語に訳すと、 またその最後には、 「この上ない真実の教えに出遇えることは、どう考えてもあり得ないことである。しかし今私はその教えに遇い、 「礼讃文」の前文において、仏教の生きがいは「私の命を明らかにする」とされ、後文においては、 |
●選ぶ● 平成18年の年が始まりました。 毎月の勉強会、子ども会との合同行事を新しく試みました。 また年1度の、日帰り本山参拝も行うことが出来、「来年も・・・」という声もいただきました。 本来、お寺という場所は人の集まる場所であります。 世の中には、色々な教え、宗教というモノがあります。 私たちは、日々の生活の中で「選ぶ」ということを常におこなって生活しています。 しかし、その物事を「選ぶ」というところには、「迷いの世界」が生じてくるのであります。 物だけではありません。時として私たちは「人」をも選ばなければならないときもあるのです。 阿弥陀如来の世界はどうかというと、私たちが「煩悩の眼」で選び取るような世界ではないのであります。 昨今、幼い命、尊い命というのが「物」同然のように扱わられています。 阿弥陀如来に願われている命。 「あなた」が大事なのです。 「あなたのこと」が大事なんであります。 |
●災禍● 先日の災害より40日ばかり過ぎました。 今年は、例年になく台風の通過の多い年となりました。 が、今回はどうだったでしょう。 災害に見舞われたら、今度は「何で私の家だけが・・・、あの家は助かって・・・」 私たちは、普段の御法義の中で一体何を聞かせていただいているのでしょうか? そういった、目先の、自分勝手な、おごり高ぶった者でさえも 山奥から流れ出すの湧き水も、いろんな所を廻って、やがては一つの海へともどる。 初めは、澄み切った湧き水も、やがては泥まみれの水へと変わってしまう。 海というのは他をして、自らに同化させ、自らは何ら変化しない性質を持っているのです。 これこそが、阿弥陀さまの世界であります。 仏の心を聞かせていただくというのは、我が身の汚い心というものが見えてくるのであります。 「親が悪い、友達が悪い、社会が悪い、環境が悪いから、こうなったのだ」と嘘ぶいて ありのままの私を見通して、その汚い私を決して拒むことなく受け入れ、 汚れた水とは、他人の事ではない。 今日から12月。 何に感謝を、今私はどうあるべきかと言う事を味わいながら、新しい年を迎えていただきたい。 そんな事を自分自身にも問いかけながら、今年最後の「今月の一言」を閉じたいと思います。 |
●帰命● 今回は、山登りの話をしましょう。 山登りをするにあたって、登り方というのは色々とあるものです。 しかし、この両者が山の頂に着いて、そこからの下界の風景というのはどうでしょうか? 「このすばらしい風景は、自分の脚であがってきてこそ味わう事ができるのだ。」と思う事でしょう。 また、自分の脚で登る事ができず、何らかの方法でその山の頂きにたどり着き、 「私は、自分の脚で登っていないから、この風景の美しさも半減してしまう。」 などと思うのでしょうか? 健脚だから、そうでない人に対して、 などと思うのでしょうか? 自分の脚で登る事ができない人というのは、それ以外の方法(周りの人に助けてもらいながらとか)でしか、 親鸞聖人が、選び取られたお念仏の世界。 それは決して、易行と言われる、楽な方法ではないのであります。 親鸞聖人が90年という御生涯をかけて伝えて下さった、お教り。 私たちも、ゆっくり、深く味わっていきましょう。 |
●ありがとう● 明けましておめでとうございます。 それぞれのお家でも、ご親戚、お孫さん達が帰省されている事でしょう。 今日はそこの所を、味わって頂きたいと思います。 私自身もそうでありますが、年のうちに何度となく、妻の実家へ帰省します。 久しぶりに妻の両親に出会い、少しばかりの時間ではありますが、子どもと一緒に楽しいひとときを 挨拶も程々にして、車を発車させると後部座席で、子どもと妻が そんな会話を聞きながら、ふと車のミラーに目をやりますと、そこには私たちの姿が無くなるまで お念仏の世界も、同じであります。 妻がお寺に着くと、まず、する事は実家への電話です。 どうしようもない私たちを、いつも見守っていただいている阿弥陀さまに出会わさせていただいたときに 妻の両親の姿に会い、阿弥陀さまの「はたらき」に出会わさせていただいた一時でありました。 そんな「あじわい」を、皆さんも頂ける事を念じて、今年最初の「一言」とします。 |
●赤ちゃん● 小さな子ども、まだ言葉も喋る事が出来ない子どもたちというのは、母親というものを、誰に教わることなく、 この行為には、3つの心が働いていると言われます。「淳心」「一心」「相続心」と言われるものであります。 赤ちゃんは、「かざりのない心」だから迷う事が無く、「迷う事がない」から「その心が続いていく」のであります。 しかし、物事には表があれば裏があるように、この美しい心にも反対の心というものがあるわけであります。 なぜ赤ちゃんは「かざりのない心」で、「あれこれと迷うことなく」、「心を持ち続ける」事が出来たのかということを、 じつは、そこにはいつもニコニコと笑いかけながら、片時も目を離さずにいる、母親という存在があったからに この赤ちゃんの「心」というものは、母親の「心」そのものである、そう受け止められたのが、親鸞聖人なのであります。 つまり、私たちの「信心」というのは、阿弥陀さまのはたらき・力そのものである事を親鸞聖人はお示し下さっております。 いつも申していますように、お念仏の中での日暮らしをさせていただくということは、何も特別な事ではないのであります。 |
●子どもたちの姿● はや、11月となり今年も今月を入れても2ヶ月となりました。 今月の末には、お寺での報恩講が勤まります。 ご法事での席で法話させていただいているように、日頃から私たち真宗念仏者としての姿を問っています。 「報恩講」を勤めると言う事が、どういうことなのか。 隣の人が勤めるから。あの人が勤めるから、私も勤めようか・・・ではなく、 先日、子どもたちと大阪のテーマパークに行って来ました。 何気ない風景、場面ではありますが、よくよく味わってみますと、お念仏の世界と同じではないでしょうか? 私たちが、日頃お経をあげるのはお釈迦様の説法を、この眼で、この口で、この耳でいただき聞くと言う事であります。 先の子どもさんは、他の誰かに恐竜を見つけた事を知らせるために歓喜の声を出したのではないのです。 私たち、お念仏も他の誰かに聞かせるために称えるのではないのです。 「なもあみだぶつ」 と、声に出てくるのであります。 そんな事を、味わさせていただいた家族サービスの時間でありました。 |
●ほんとうの自分の姿● 人間は勝手なもので、直接自分自身にいただいた恩に対しては、素直に「ありがとう」と言えますが、 生かされ支えられている私の存在が確認できたとき、あらゆるものに対する恩を感じ、 親鸞聖人は、 「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」 と自己を深く追究されました。 このような私を必ず救いとり捨てないとの願いを、如来さまはお念仏にこめて届けて下さいました。 いつもお念仏の中に住まわせていただき、必ず浄土に往生させてもらう身の幸せを感じつつ、 |
●めでたい言葉● 姫路の写書山と言うところに、盤珪(ばんけい)和尚という方がおられました。 ところが、その講習中に盗難事件が起こりました。若い僧侶たちは必死になって犯人をさがし、 「あの男が犯人です。だから、山から降りるように注意して下さい。」 と強い口調で迫りました。ところが和尚は、「うん、うん」とうなずくだけで、いっこうに注意しません。 あまりにも和尚が注意しないので、他の僧侶たちは、 行っている悪さに気づいていないかもしれません。 |
●平生業成(へいせいごうじょう)● 浄土真宗の救いを顕わす大切な言葉に、平生業成という言葉があります。 親鸞聖人はこの平生業成のこころを末灯鈔に 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。 と示されました。阿弥陀如来の信心をいただいた者は、阿弥陀如来のおさめとって つまり平生業成とは、臨終や来迎の救いに対して、阿弥陀如来の救いは「今」であることを 一般的には浄土往生という言葉をいのち終わった後の出来事と解釈しておりますが、 それゆえ、死にざまは全く関係ありません。病気で亡くなろうが、事故で亡くなろうが、 浄土真宗は、臨終や死んだ後には関係ないのです。 大切な人の死は、私に「目覚め」を促す 「いずれ住職にお世話になりますから」という人がおりますが、死んだ後ではお世話は |
●「他力本願」とは● 「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。 「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺(こうだいむへん)な阿弥陀如来の力を表す言葉です。 この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、 |
●お盆とは● お盆が、他の法事よりも増して慰霊の儀式ととらえられがちなのもこのためでしょう。 まず、お盆の由来について、かいつまんでお話ししましょう。 お釈迦さまのお弟子で、神通力が一番といわれる目連という方がありました。 飢えた母親を助けようと、目連は食べ物を差し出すのですが、食べようとすると、 その僧侶をもてなした日が、お盆の始まりというわけです。モノの本には、7月15日とあります。 どうです?お盆のイメージが変わったんじゃありませんか?亡くなった人が帰ってくるなどの話は出てきません。 それよりもなぜ、優しかった母親が、亡くなって飢えに苦しむ世界に堕(お)ちてしまったのか、 母親は子どもに対する愛情が深いが故に、罪深い存在となってしまわれたということです。 親の愛情として見るならば、十分すぎるぐらい理解できる行為です。多くの人がそうすると思います。 他人同士はもちろん、親子のつながりも希薄になってきたと指摘される昨今であります。 お盆というご縁に、みなさんで揃ってお仏壇に手を合わせ、 |
●「めでたい」言葉● 先日、朝早く目覚めて、何気なしにテレビのスイッチをつけました。 昔、よく見ていた番組でしたから、自分の幼い頃を思い出しては、独り懐かしがっていました。 ある正月の出来事です。一人の人が、一休さんを訪ねて、 「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」 というものでした。これを見たその人は、露骨に嫌な顔をしたのです。 「孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ」 と書き直し、「これはどうかな?」と尋ねられました。その時にやっと一休さんの真意が分かったその人は、 私達の「生命(いのち)」は、老いも若きも関係なく、まさに老少不定であります。 私達は今、いつ終わるとも知れぬ「生命(いのち)」を頂き、生かされています。 |
●パソコンと仏教● 私達は、コンピュータというと、すぐに機械のことばかりを考えて、 ところが、パソコンに精通していればいるほど、機械ではなく、ソフトが問題ですよとの答えが返ってきます。 「ハードよりもソフトが大事ですよ」というのが、専門のよく使っている人の言葉です。 この話しを聞いていると、私たちは形のあるものだけに興味を持ち、形のないソフトという感覚を テレビ、新聞、日常会話でも、身体がいかに大事で、長持ちさせるのか。 ところが、この身体が元気過ぎても、逆に悲しいことのようです。 私たちは、何のためにこの世に、人間として、生まれてきたのか。何のために長生きしたいのか。 コンピュータにハードとソフトがあるように、仏教にも人間のことを機械の「機」といい、 「機」と「法」とが一体になった、「機法一体の南無阿弥陀仏」と御文章などで聞くときに、 この私も、仏法に、南無阿弥陀仏に出会ってはじめて、人間らしい働きができるのではないでしょうか。 ハードだけではなく、ソフトが大事という専門の人の言葉は、身体だけではなく、南無阿弥陀仏が大事との |