@

     TOPページ
      ├ 今月の一言
        └ バックナンバー
      ├ お寺での集まり
      ├ お寺の行事
      ├ 平成23年度年忌表
      ├ 墓地管理
      ├ お荘厳について
      ├ 仏事ごとQ&A
      ├ 親鸞、蓮如
      └ 真宗用語
       
     ┌ 直接のメールはこちら@
     │
     ├ 台風災害について
     └ ご門主、お立ち寄り

 

「今月の一言」のバックナンバー

礼讃文

生きがいの「かい」という言葉を辞書で引くと、「その行為に値するだけのしるし。また、それだけの値打ちや効果」

つまり生きがいとは、生きているに値するだけのしるし。であり、生きている値打ちや効果。ということでしょうか。

それでは「あなたの生きがいは何ですか」と問われたとき、皆さんはなんと答えられるでしょうか。
仕事。あるいは子供。それとも社会奉仕などの活動。色々な意見があると思いますが、こうしてはっきりと質問
されると結構つらいものがあります。それはつまり漠然と生きているからではないでしょうか。
ほとんどの方は「生まれたから生きている」といった生き方をしているのではないでしょうか。

確かに仕事に生きがいを見いだした方もおられることでしょう。また、子供が生きがいと考えていた時期もあった
かと思います。でも、定年を迎え、子供も独り立ちしたあと、本当に生きがいと呼べるものが無くなっているのが
現在の熟年・老年の方々ではないでしょうか。

では、仏教では生きがいをどう考えているのでしょうか。

仏教各宗派に共通する「礼讃文」の前文です。
人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。
  この身今生にむかって度せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん
。」

現代語に訳すと、
生まれ難き人間として生まれ。聞き難き仏法を今聞いている。この命を、
  この人としての生のあるうちに明らかにしなければ、いったいいつ明らかに出来るのか
。」

またその最後には、
無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。われ今見聞し受持することをえたり。
  願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
」とあります。

この上ない真実の教えに出遇えることは、どう考えてもあり得ないことである。しかし今私はその教えに遇い、
  その教えを聞くことができる。願いは、如来の救いをこの身で解したいということです。
」と意訳できます。

「礼讃文」の前文において、仏教の生きがいは「私の命を明らかにする」とされ、後文においては、
「阿弥陀如来の救いを体現する」ことであるとされております。
つまり、教えを聞くことによって「私の命の本当の拠り処を明らかにする」ことが
この世に生を受けた生きがいだと言うのです。そしてその「よりどころ」とは生死を超えた拠り処です。
これさえあれば死んでいけるという拠り処を持つところに、
人生の意義があるのではないでしょうか?

 

選ぶ

平成18年の年が始まりました。
旧年は、ご門徒の方々が当寺の修復ならびに色々な行事に参加して頂き、本当にありがとうございました。

毎月の勉強会、子ども会との合同行事を新しく試みました。
毎月1時間という短い時間ではありますが、ご法義について、作法について、お経、ご文章についての
勉強をしてきました。ご門徒の理解、認識というモノに住職として認識させられ、また勉強もさせて頂きました。

また年1度の、日帰り本山参拝も行うことが出来、「来年も・・・」という声もいただきました。

本来、お寺という場所は人の集まる場所であります。
お参りする場所であることは、当然ですが、まず皆がお寺に足を運ぶと言うことが一番大事なことであります。

世の中には、色々な教え、宗教というモノがあります。
その中で、この「浄土真宗」に出会えたと言うことの喜びを、深く感謝しなければならないのではないでしょうか?

私たちは、日々の生活の中で「選ぶ」ということを常におこなって生活しています。
AとB、どちらかを選ばなければならない。そんなとき私たちは、今までの培ってきた知識や経験で
選び取っていくです。その選択肢というモノが多くなればなるほど「選ぶ」ということも難しくなってきます。
その中で一つのモノを選び取る。結果、良い方向に進むときと、そうでないときも出てくるのです。
どちらにしても、その結果をふまえて、次の選択肢とつなげていくのであります。

しかし、その物事を「選ぶ」というところには、「迷いの世界」が生じてくるのであります。

物だけではありません。時として私たちは「人」をも選ばなければならないときもあるのです。
「人を選ぶ」というところには、物を選び取る「迷いの世界」とは違い「疑いの世界」が生じてくるのであります。

阿弥陀如来の世界はどうかというと、私たちが「煩悩の眼」で選び取るような世界ではないのであります。
「誰が良い、悪い。」「あれは良い、悪い」などといった世界ではなく、すべてのものを、大きな力でもって
はたらきかけられているのです。煩悩を抱えているからこそ、
この愚痴あんどんの私たちを見つけてくださるのであります。

昨今、幼い命、尊い命というのが「物」同然のように扱わられています。
今一度、命の尊さというものを味わってみましょう。

阿弥陀如来に願われている命。

「あなた」が大事なのです。

「あなたのこと」が大事なんであります。

 

災禍

先日の災害より40日ばかり過ぎました。

今年は、例年になく台風の通過の多い年となりました。
今回の23号が通過する前までは、
「今回も避けてくれた・・・良かった、良かった」と
被災している土地での報道を目にしながら、他人事かのように思ってきました。

が、今回はどうだったでしょう。

災害に見舞われたら、今度は「何で私の家だけが・・・、あの家は助かって・・・」
などという身勝手な考えを持ってしまう。
あげくには、「早く私の所を・・・、私の方を先に手伝って欲しい」などと、
我執の世界をも目にする事もありました。

私たちは、普段の御法義の中で一体何を聞かせていただいているのでしょうか?

そういった、目先の、自分勝手な、おごり高ぶった者でさえも
決して見捨てずに、見つめていてくださる方がおられるのです。
かといって、好き放題していても良いと言う事ではありません。

山奥から流れ出すの湧き水も、いろんな所を廻って、やがては一つの海へともどる。
湧き水は、生まれたての子であります。その子どもも、年を重ねていくと
いろんな経験、楽しい事、つらい事、悲しい事に遭う。

初めは、澄み切った湧き水も、やがては泥まみれの水へと変わってしまう。
しかし、その汚れきった水も一つの海に流れ込むとどうなるか。
いくら汚れていても、一つの塩水となってしまうのであります。

海というのは他をして、自らに同化させ、自らは何ら変化しない性質を持っているのです。

これこそが、阿弥陀さまの世界であります。
汚れたものであっても受け入れ、それを清らかに転じ、その事によって自らの清らかさを
失う事がないのであります。

仏の心を聞かせていただくというのは、我が身の汚い心というものが見えてくるのであります。

「親が悪い、友達が悪い、社会が悪い、環境が悪いから、こうなったのだ」と嘘ぶいて
自分自らが悪化した事を認めようとしないのであります。

ありのままの私を見通して、その汚い私を決して拒むことなく受け入れ、
清心へと転じようとされる仏の願いに出会う事が聴聞なのであります。

汚れた水とは、他人の事ではない。
他でもない、この私自身であると言う事を気づかなければならないのであります。

今日から12月。
今年最後の月であります。例年通りこの月は「御門徒の報恩講の月」であります。
早速、今日から報恩講のご縁を頂き、明日からも各お家での報恩講が勤まります。

何に感謝を、今私はどうあるべきかと言う事を味わいながら、新しい年を迎えていただきたい。

そんな事を自分自身にも問いかけながら、今年最後の「今月の一言」を閉じたいと思います。

 

帰命

今回は、山登りの話をしましょう。

山登りをするにあたって、登り方というのは色々とあるものです。
健脚者は、自分の脚でその山の頂きまで登ろうと頑張るのです。
しかしそうでない人もいるのです。
いくら一生懸命頑張ろうとしても、自分の脚ではどうしようもできない。
とうてい山の頂まではたどり着く事ができないのであります。

しかし、この両者が山の頂に着いて、そこからの下界の風景というのはどうでしょうか?

「このすばらしい風景は、自分の脚であがってきてこそ味わう事ができるのだ。」と思う事でしょう。

また、自分の脚で登る事ができず、何らかの方法でその山の頂きにたどり着き、
そこからの風景を見て、どう思うのでしょうか?

「私は、自分の脚で登っていないから、この風景の美しさも半減してしまう。」

などと思うのでしょうか?
そうではないはずです。たとえ自分の脚で登る事ができず、周りの人たちに助けられ、
その山に登る事が出来、そこからのすばらしい風景に感動すると言う事は、健脚者と同じであります。

健脚だから、そうでない人に対して、
「自分の脚で登ったものと、そうでないものの感動の大きさは、違うんだ。
 私の方がより大きな感動を味わう事ができた・・・」

などと思うのでしょうか?

自分の脚で登る事ができない人というのは、それ以外の方法(周りの人に助けてもらいながらとか)でしか、
登る事ができないのであります。その方法しかないのであります。

親鸞聖人が、選び取られたお念仏の世界。
いくら自力での修行をしたとしても、自分の力では、御浄土へと生まれさせていただく事ができない。
むしろ自分というものに気づかさせていただき、阿弥陀如来の本願と言うものにお任せするしかないのだと。

それは決して、易行と言われる、楽な方法ではないのであります。
むしろ、どうしようもないこの我が身に気づき、如来の信を味わう、難信の世界であります。

親鸞聖人が90年という御生涯をかけて伝えて下さった、お教り。

私たちも、ゆっくり、深く味わっていきましょう。

 

ありがとう

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。昨年5月末より開設し、定期的に「今月の一言」として発刊し、初めての年越しであります。

それぞれのお家でも、ご親戚、お孫さん達が帰省されている事でしょう。
そして、お正月が終わるとそれぞれの家へと帰っていくわけであります。

今日はそこの所を、味わって頂きたいと思います。

私自身もそうでありますが、年のうちに何度となく、妻の実家へ帰省します。
そして、お寺に帰ってくるたびに同じ光景に出会うわけであります。

久しぶりに妻の両親に出会い、少しばかりの時間ではありますが、子どもと一緒に楽しいひとときを
過ごしてきます。そして、いよいよお寺に帰るよって言うときは決まって両親が玄関先で私たちを見送って頂きます。

挨拶も程々にして、車を発車させると後部座席で、子どもと妻が
「楽しかったね。またおじいちゃん達に会いに来ようね。」と話しています。

そんな会話を聞きながら、ふと車のミラーに目をやりますと、そこには私たちの姿が無くなるまで
見送っている両親の姿が映し出されているのであります。
車に乗り込むと他の事は考えず、私たちだけの事を考えているのに対し、
そんな私たちを、いつまでも見守って頂いてる両親の姿に気づかされたのであります。

お念仏の世界も、同じであります。
生かされているこの私。ありのままのありように気づかない私。
そんな私たちであっても、見捨てずにはおかないぞ、いつでも見守って入るぞ、とお示し下さっているのが
阿弥陀さまであります。

妻がお寺に着くと、まず、する事は実家への電話です。
「今無事に着いたよ。ありがとう。」と・・・たった一言であります。

どうしようもない私たちを、いつも見守っていただいている阿弥陀さまに出会わさせていただいたときに
声となって出てくるのが、「なもあみだぶつ」なのであります。

妻の両親の姿に会い、阿弥陀さまの「はたらき」に出会わさせていただいた一時でありました。

そんな「あじわい」を、皆さんも頂ける事を念じて、今年最初の「一言」とします。

 

赤ちゃん

小さな子ども、まだ言葉も喋る事が出来ない子どもたちというのは、母親というものを、誰に教わることなく、
母親と見ているわけであります。そして、飾り気のない心で、あれこれと迷い疑うことなく、ひざまずいた
母親の胸へとたどり着くまでハイハイを続けていきます。

この行為には、3つの心が働いていると言われます。「淳心」「一心」「相続心」と言われるものであります。
「淳心」とは、「飾り気のない心」。「一心」とは、「疑いのない心」。そして「相続心」とは、「他の思いがまじらない」
という心であります。

赤ちゃんは、「かざりのない心」だから迷う事が無く、「迷う事がない」から「その心が続いていく」のであります。

しかし、物事には表があれば裏があるように、この美しい心にも反対の心というものがあるわけであります。
「さまざまな思い」があるから「あれこれと迷う」のであります。そして、迷うと他の思いが入って「心が続かない」。
「心が続かない」から「あれこれ迷っている」と言う事であります。それは「さまざまな思い」を持っているからに
違いありません。

なぜ赤ちゃんは「かざりのない心」で、「あれこれと迷うことなく」、「心を持ち続ける」事が出来たのかということを、
味わってみたいわけであります。

じつは、そこにはいつもニコニコと笑いかけながら、片時も目を離さずにいる、母親という存在があったからに
他ならないのであります。その母親の、はたらき・力によって出来上がったものなのであります。

この赤ちゃんの「心」というものは、母親の「心」そのものである、そう受け止められたのが、親鸞聖人なのであります。

つまり、私たちの「信心」というのは、阿弥陀さまのはたらき・力そのものである事を親鸞聖人はお示し下さっております。

いつも申していますように、お念仏の中での日暮らしをさせていただくということは、何も特別な事ではないのであります。
日暮らしの中での、出来事を親鸞聖人のお言葉として味わさせていただく。このことが、肝要なのであります。

 

子どもたちの姿

はや、11月となり今年も今月を入れても2ヶ月となりました。
9月の半ばより、お知らせ、お願いしておりました「ご門徒の報恩講」も来月となりました。

今月の末には、お寺での報恩講が勤まります。
毎年の行事として、この日はご門徒の皆さんと一緒に食事を本堂でいただきます。
今年1年を振り返り、また残り少ない今年をどう過ごし、新しい年はどう過ごすかと言う事を
話し合われる事でしょう。

ご法事での席で法話させていただいているように、日頃から私たち真宗念仏者としての姿を問っています。
「お念仏の中での生活」も大事ではありますが、「お念仏のある生活」を過ごしたいものであります。

「報恩講」を勤めると言う事が、どういうことなのか。

隣の人が勤めるから。あの人が勤めるから、私も勤めようか・・・ではなく、
この「私」が、勤めさせて頂かなければならないのです。
そして阿弥陀如来のはたらき、親鸞聖人のお教りを聞かせていただく、この私もまた
尊いのであります。

先日、子どもたちと大阪のテーマパークに行って来ました。
ある恐竜のアトラクションで、しげみに隠れている恐竜たちを、子どもたちは私たち大人よりも
素早く見つけていました。一人の子どもさんが、「あっ、恐竜だ」を声を上げると、それを聞いた
他の子ども達も一斉にそちらを見て、それぞれの子どもたちが恐竜を見つけて、歓喜の声をあげていました。

何気ない風景、場面ではありますが、よくよく味わってみますと、お念仏の世界と同じではないでしょうか?

私たちが、日頃お経をあげるのはお釈迦様の説法を、この眼で、この口で、この耳でいただき聞くと言う事であります。
そして、お念仏をするという事は、六字の名号「南無阿弥陀仏」の聞くと言う事であります。

先の子どもさんは、他の誰かに恐竜を見つけた事を知らせるために歓喜の声を出したのではないのです。
自分よりも大きな存在、大きなはたらきを味わい、その結果声となって出たのであります。

私たち、お念仏も他の誰かに聞かせるために称えるのではないのです。
私自身、その大きなはたらきに出会い、自分というものに気づかさせて頂いたときに、

  「なもあみだぶつ」

と、声に出てくるのであります。
「報恩講」も、他の人が勤めるからではなく、私が勤めさせていただくと言う事が大事なのであります。

そんな事を、味わさせていただいた家族サービスの時間でありました。

 

ほんとうの自分の姿

人間は勝手なもので、直接自分自身にいただいた恩に対しては、素直に「ありがとう」と言えますが、
そのかげとなって支える数多くの恩に対しては、なかなか気付かないものです。

生かされ支えられている私の存在が確認できたとき、あらゆるものに対する恩を感じ、
おのずから感謝の念がうまれてくるのではないでしょうか?

親鸞聖人は、

 「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」

と自己を深く追究されました。
人間は誰しも自分のことは棚に上げ、他人のことばかりが気になるものです。
そして、欲が多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心が死ぬまで絶えない身でありながら、
恥じることすら知らないありさまです。

このような私を必ず救いとり捨てないとの願いを、如来さまはお念仏にこめて届けて下さいました。
長い迷いの時を隔てて今、お念仏によって真実の自分の姿に気付かせていただいたとき、
あさはかな私を何とかせねばおかない如来さまのお慈悲にただおまかせするほかありません。

いつもお念仏の中に住まわせていただき、必ず浄土に往生させてもらう身の幸せを感じつつ、
しっかりとした足取りで人生を歩ませていただきたいと思います。

 

めでたい言葉

姫路の写書山と言うところに、盤珪(ばんけい)和尚という方がおられました。
和尚は、若い僧侶を集め講習会を開かれました。

ところが、その講習中に盗難事件が起こりました。若い僧侶たちは必死になって犯人をさがし、
とうとう一人の僧侶が犯人とわかったのです。そこで皆は和尚のところに行き、

「あの男が犯人です。だから、山から降りるように注意して下さい。」

と強い口調で迫りました。ところが和尚は、「うん、うん」とうなずくだけで、いっこうに注意しません。

あまりにも和尚が注意しないので、他の僧侶たちは、
「あの男を山から降ろさないのなら、私たち全員が山を降ります。」と怒り出したそうです。
すると和尚は、「では、皆が山を降りればいいでしょう。皆のような正しい人たちに
教えることは何もありません。あなた達は、私が教えなくても正しく生きていけます。
だけど、私が教えなくてはいけないのは、あなた方ではなく、むしろ盗みをしてしまった
あの僧侶なのです。彼を正しい道に導くことができるまで、私は彼を見放すわけにはいかないのです。」
と言われたそうです。それからというもの盗みはなくなり、全員が和尚の話を聞いて勉強したそうです。

和尚は、泥棒をするものも悪いが、その僧侶を追放しようとする皆も悪い事をしているのだ、
と教えられたのです。
私たちも、他人のイヤなところや悪いところに目を向けるあまり、自分が何気なしに

行っている悪さに気づいていないかもしれません。

 

平生業成(へいせいごうじょう)

浄土真宗の救いを顕わす大切な言葉に、平生業成という言葉があります。
平生業成とは、阿弥陀如来の救いは「今」の救いであるということです。

親鸞聖人はこの平生業成のこころを末灯鈔に

 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。
  このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、
  信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」

と示されました。阿弥陀如来の信心をいただいた者は、阿弥陀如来のおさめとって
捨てはしないという救いの中に今すでにあるため、身は迷いの世にありながらも、
すでに浄土往生が定まっているのである。だから、臨終に阿弥陀如来の救いがあるのだとか、
いのち終わるときに阿弥陀如来が迎えに来る、という考えがあってはならない。
信心という阿弥陀如来への絶対帰依心が定まったときに、救いもまた定まるのである、
ということです。

つまり平生業成とは、臨終や来迎の救いに対して、阿弥陀如来の救いは「今」であることを
顕わす言葉なのです。

一般的には浄土往生という言葉をいのち終わった後の出来事と解釈しておりますが、
親鸞聖人は命終の後とは考えておられませんでした。
信心の定まる今が浄土往生の定まる時であると解釈されたのです。

それゆえ、死にざまは全く関係ありません。病気で亡くなろうが、事故で亡くなろうが、
あるいは自殺という亡くなり方であろうが、死にざまは一切関係ない、大事なことは、
今、信心をいただいている身であるかどうかということです。

浄土真宗は、臨終や死んだ後には関係ないのです。 大切な人の死は、私に「目覚め」を促す
尊い縁として受け止めていく、亡くなった方を供養していく宗教ではないのです。

「いずれ住職にお世話になりますから」という人がおりますが、死んだ後ではお世話は
出来ないのです。生きている今が浄土往生のご縁の結び時なのです。

 

「他力本願」とは

「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、
もちろん他人の力をあてにすることでもありません。
また世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。

「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺(こうだいむへん)な阿弥陀如来の力を表す言葉です。

「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の
願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と
誓われた願いのことです。

この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、
「他力」といいます。

私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、
「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。
 
ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、今のいのちの尊さと意義が明らかに知らされる
のであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

 

お盆とは

お盆が、他の法事よりも増して慰霊の儀式ととらえられがちなのもこのためでしょう。
ご門徒さんとして、お盆をよいご縁にと、ともに味わわさせていただくためには、
今少しお盆の意義を考えていただきたいものです。

まず、お盆の由来について、かいつまんでお話ししましょう。

お釈迦さまのお弟子で、神通力が一番といわれる目連という方がありました。
その方のお母さんがお亡くなりになったのです。その後、目連さんは「優しかった母親は、
きっと今頃天上でにこやかにお暮らしだ」と思い、神通力を使って会いに行きました。
ところが母親の姿はそこにはありません。あわてていろんな世界を探しましたが、やっぱりおられない。
まさかと思いつつ、飢えに苦しむ世界をのぞいてみると、なんとそこに母親の姿がありました。

飢えた母親を助けようと、目連は食べ物を差し出すのですが、食べようとすると、
なぜが火となって燃えてしまう。どうにかして助けてあげたい一心で、ついにお釈迦さまに相談するのでした。

するとお釈迦さまは「僧侶が一定期間の修行を終える日がくる。その日に多くの僧侶たちをもてなしなさい」と
おっしゃいました。その通り僧侶方にご馳走を振る舞うなどした目連、その功徳によって、母親は無事に
救われたということです。

その僧侶をもてなした日が、お盆の始まりというわけです。モノの本には、7月15日とあります。
ちなみに母親が救われたうれしさのあまり、踊り出したというのが「盆踊り」の起源とも言われています。

どうです?お盆のイメージが変わったんじゃありませんか?亡くなった人が帰ってくるなどの話は出てきません。

それよりもなぜ、優しかった母親が、亡くなって飢えに苦しむ世界に堕(お)ちてしまったのか、
そこを考えさせられる話です。

母親は子どもに対する愛情が深いが故に、罪深い存在となってしまわれたということです。
たとえば多くの子どもが飢えている中、食べ物を手に入れたとします。そこで、我が子可愛さに、
食べ物をこっそり一人だけに与えるというようなことをしたとしたらどうでしょう。

親の愛情として見るならば、十分すぎるぐらい理解できる行為です。多くの人がそうすると思います。
反面、それは他の飢えた人から見れば許されざる行為でもあったのです。母親は、我が子を守るためには、
どんな罪深いことも厭(いと)わなかった、そのため苦の世界に身を沈めてしまったのです。

他人同士はもちろん、親子のつながりも希薄になってきたと指摘される昨今であります。
実際それが起因とされる、さまざまな事件が起きています。新聞を見ると日本中の親子関係が崩れている
かのように書いてありますが、まだまだお盆には里帰りして、家族大勢で過ごす人たちが大半ではないか
と思います。

お盆というご縁に、みなさんで揃ってお仏壇に手を合わせ、
まず、自分がこうしてここにいる身の幸せを感謝してみて下さい。

 

「めでたい」言葉

先日、朝早く目覚めて、何気なしにテレビのスイッチをつけました。
すると「一休さん」のアニメが再放送で流れていました。

昔、よく見ていた番組でしたから、自分の幼い頃を思い出しては、独り懐かしがっていました。
そんな一休さんにちなんだ話にこういうエピソードがあります。

ある正月の出来事です。一人の人が、一休さんを訪ねて、
「一休さん、新年を迎えて何かおめでたい言葉を書いてはくれないですか?」と
お願いに来たそうです。すると、一休さんはニコニコしながら、その申し出を快く引き受け、
こんな言葉を書いたそうです。その言葉とは、

 「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」

というものでした。これを見たその人は、露骨に嫌な顔をしたのです。
きっと「お正月早々、いくら一休さんとは言え、『死ぬ』とはけしからん。」
‥‥そう心の中で思ったに違いありません。
すると一休さんは、その人の心境をすぐさま察知して、ただちに先程とは逆に

 「孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ」

と書き直し、「これはどうかな?」と尋ねられました。その時にやっと一休さんの真意が分かったその人は、
一休さんに手をついて誤ったと言われています。

私達の「生命(いのち)」は、老いも若きも関係なく、まさに老少不定であります。
ならば、一休さんが最初に書かれた「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」という言葉とおり、
歳の順に亡くなっていけることが出来たのなら、それはとてもおめでたい事であると言わねばなりません。

私達は今、いつ終わるとも知れぬ「生命(いのち)」を頂き、生かされています。
ならば、当たり前に思えていた日常の暮らしが当たり前でなくなってくる事に気づかされます。
いつ何時、暮れるかも知れぬ月日を如来様と共に送っていきたいと念じる、朝の御縁でありました。

 

パソコンと仏教

私達は、コンピュータというと、すぐに機械のことばかりを考えて、
どの会社の機種がいいのか、安いのか。すぐに質問したくなってきます。

ところが、パソコンに精通していればいるほど、機械ではなく、ソフトが問題ですよとの答えが返ってきます。

「ハードよりもソフトが大事ですよ」というのが、専門のよく使っている人の言葉です。
ハードという形のある機械と、形のないソフトとが一体になることで、コンピューターは、
ひとつの機械として働きが出てくるのです。

この話しを聞いていると、私たちは形のあるものだけに興味を持ち、形のないソフトという感覚を
持ち合わせていないことに気づかさせていただきます。

テレビ、新聞、日常会話でも、身体がいかに大事で、長持ちさせるのか。
病気になったらすべてが終わりになるという考え方だけが信じられています。

ところが、この身体が元気過ぎても、逆に悲しいことのようです。
元気で長生きして果たして、何をやるのか。現在はそれが段々と見えなくなってきているようです。

私たちは、何のためにこの世に、人間として、生まれてきたのか。何のために長生きしたいのか。
そこが見えなくなっているようです。

コンピュータにハードとソフトがあるように、仏教にも人間のことを機械の「機」といい、
教えを「法」といいます。南無阿弥陀仏を若い人にも身近に感じていただければと思い、
ホームページを開設しました。

「機」と「法」とが一体になった、「機法一体の南無阿弥陀仏」と御文章などで聞くときに、
私たちは、救われる身体のことだけを大事にして、働きのもとである、仏法に気づかずにいるようです。

この私も、仏法に、南無阿弥陀仏に出会ってはじめて、人間らしい働きができるのではないでしょうか。

ハードだけではなく、ソフトが大事という専門の人の言葉は、身体だけではなく、南無阿弥陀仏が大事との
言葉に聞こえます。